大事なこと

お昼を食べてから、部室で少し休み、その後大学図書館で資料を読み、さらに資料の検索をして、学部の図書室に移動し、新たな資料をゲットして、コンピューター室にいるのは、私です。
今週の土曜日に出前があるのですが、その出前でやると決めた落語をすっかり忘れてしまっているという事実が発覚。よみがえらせるべく、再練習を決意。発表会に備えての落語もあるのにこの調子で大丈夫なのか、卒論に影響は出ないのか、色々妄想してしまって、体によくありません。
どうにしろ、考えるだけ考えても、実際に何もしなければあんまり意味がないということで、とにかくまずは少しでもやってみようという感じです。卒論に関しては、あんまりやってこなかったからこそ、今の無様な状態であるということは言うまでもありません。卒論だけでなく、私自身に関することは、ほとんどすべてと言っても過言ではないんですが。
勝手に自体が好転するように考えてしまうのは、甚だ自分勝手だなあと最近思うようになりました。自分が全力であったとしても、思い通りにならないことだってあるのに、意思を持たず流されることで最高の結果を得るようなことなんてないかと…
私に関しては、おそらく努力の絶対的な量や質が低いせいで、かなり結果が出にくい人間なんだろうと思います。質が低いというのはいくらか仕方がない部分があるのかもしれませんが、量が問題なのは思わしくありません。
高い理想だけ掲げ、そのための家庭をきちんと歩まない人は、結果はもちろん、どうも信頼などの人間的な魅力が欠如していくのではないかと感じてなりません。身近で言えば…私でしょうか。
私自身、今悔しく思っていることがあって、それは不適切な睡眠をとっているということです。はっきり言うと、寝すぎなんです。
死力を尽くしてやるべきこと以上に、眠いことが勝ってしまう。その状態です。
寝ること自体は意味があることです、当然必要なことです。ただ、そのレベルを超えて成し遂げるべきもの(落語とか、研究)だと感じているのに、肉体を精神が超えていけない自分がいるのです。
別に、睡眠の量をコントロールしたいとは思いません。必要に応じて、好きなだけ力を入れられる、それだけの無理を出来るだけの強さがほしいですね。
鍛えることで手に入れられるかといえば、案外そうでもないような気がします。たぶん、自分自身が達成できて、そのイメージを具体化してこそではないでしょうか。
一般に言う努力の形というのは、何らかの結果にしたときが一番強いものです。結果が出れば、「これだけのことが出来たんだ」と感じられ、「もっと出来るに違いない」という原動力になるものです。
私には出来るでしょうか。

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