言葉にならない

昨日(2013年3月11日)で、震災から2年でした。
1分くらいと思って自席で黙祷したものですが、1分の長さに改めて驚かされました。
あの時は、この3倍くらいでしたか、強烈に揺れたのですから。
自分のことを思い返してみますが、すっかり日常を取り戻したって感じですね。
そういう事情もあり、「片時も忘れない」といってみても、すぐに嘘になってしまいます。
自分は自分で、当日帰宅はできなかったし、大変な思いをしたものだとは思ってたんですが、期間が開くともっと冷静になって、命が脅かされるようなことは、(結局)なかったと気づかされます。
だからといって、″生かされてる″というと、信心深すぎて逆に怪しいですね。。
生死という根本的な問題を切り離しても、あの日を境に動かなくなったものが多いと思います。
もちろん、復興に動いたものだって少なくないと思いますけど。
僕も、もっぱら自分の中に閉じてはいますが、やったことが何になったか、気になることが増えました。
生きてる実感みたいなものを、よりいっそう求めるようになったのかもしれませんね。
これがもしなくなったら、生きていけないと思ったということもあるんでしょうけど。
結局、想うことがあっても、あまり言葉になりません。
そういうものなのでしょう。