自分が存在することは、どれほど価値のあることか

あなたは、今、何を求めていますか―
この問いに対しての答えは人それぞれでしょう。
さて、私は今年になってから、就職活動を続けてきました。
それは、自分の仕事を通して、人・世の中の役に立ちたいと強く思ったからです。高校生の頃抱いた、楽しく過ごしたいという思いがもっと具体的になったのです。
何十社も受けてきましたが、結局、内々定を得ることも出来ず、今に至りました。
そんな私ですが、今日、採用内定をいただきました。
もう、就職活動をやめようと思った頃だったですが、「本当の最後の最後」で、確実に自分らしくいれたことが、伝えられたんだなあとしみじみ感じます。
中学高校の演劇、大学での落語を通して、一番考えるようになったことは、自分をどう表現することかということです。
小学校高学年の頃から、CDで音楽を聴くようになって、聴いた曲に対して、純粋に「いい曲だな」と感じるようになったのが発端ではないかと思います。その音楽の表現を自分が解釈して、共感するという過程を楽しんでいたんですね。
学年が上がるにつれて、外部のものを解釈するだけでなく、自分が何かを発信することを知るようになりました。演劇なんて、小学校の頃だとチョイ役しかしなかったけれど、中学高校では、主人公を含め、かなりメインキャストをやりました。その役割の大きさは、自分が表現者として実感を持つには十分だったのです。
周りからは、それなりに「面白い人」という評価を得られるようになったときに、もっと自分は表現者としての可能性を追求できる気がしていました。それを、社会という大舞台で挑みたいたい。ただそれだけでした。
ずっと目指してきて、成果が何も生まれないという現実は、自分が否定されたという表現にぴったり当てはまると感じます。
自分の感じる自我が、他者が見る私自身とかけ離れすぎ、その結果が自分が自分でないかのように思えるわけです。
はっきり言って、現実はそうなのかもしれません。自分のことなんて、しっかり理解してくれる人の方が、ずっと少ない。
だから、今ここにいる自分をありのまま見せ、それで勝負したい。その思い、決して消えることはありませんでした。
とても辛いことでした。はっきり言って、無意識的に守ってしまうプライドをすべて捨て、下手に出るようなこともせず、ただありのまま。母親には、「相手に合わせて適応するのが、大人だ」というふうに言われてきましたが、全くそうしませんでした。そんなことで務まるなら、特定の人を用いる意味がない。それどころか、人そのものを用いる意味がない。人が人らしく振舞わなくなってしまったなら、それまでなんだ。
ここで、残念なところは、自分はすべての場面で、自分が思い描くようには行動できなかったところでしょう。しかし、それほどに難しいことは、間違いなく何よりもパワーがあることだという確信はありました。そうでなければ、私はもはや中身のない人間になってしまうからです。
そして、幸いにも絶対に絶対にありのままの自分でありたいときに、出来たという事実は、間違いありません。たった、3度ですが。
人は、それぞれ違えど、必ず「よさ」や「らしさ」がある。それを否定することは、とても私には出来なかった。
時間はかかれども、私には自分らしさをありのまま伝えることが出来ました。それを何かに託すのではなく、生身で。
なので、これを見てくれる仲間に言っておきたい。
何を求めている
意思はあるか
君が君でありうるか
先が見えない雲の中に閉じ込められてしまったときは、ただまっすぐ進んでいくんだ。何にもめげない意思があれば、どんな嵐でも、どんな雷の中でも、確実に、進んでいくことが出来るだろう。雲は、果てしなく大きなものかもしれない。君を傷つけるものかもしれない。
それでも―
いつか、突き抜けたその時は、必ず青い空があるものだ。
いつもと変わらず、いろいろと偉そうに語ってしまいました。でも、これが私なんです。
そして、少しでも私の将来を想ってくれたみんなに、ありがとう。